記憶の欠片は、さらに過去を映し出す。
それが過去だとわかるほどには、私は色々なものを取り戻していた。
「あの……今日はここまでで良いですか?」
私は、先輩のアパートの前でそう告げた。今日は先輩の部屋でアンサンブルをするつも
りだったのに、そうはできない事情ができてしまった。でも先輩は、優しい声で
「いつでも良いよ。一日中家にいると思うから」
「……わかりました。では、土曜日に」
そのまま別れ、私はさっき教えられた道順の記憶を頼りに歩き出す。そこからそう遠くは
ない場所に、トルティニタさんの家があるはずだった。
『もう少し話したいことがあるから、いつでもいいから来てくれる?』
トルティニタさんが話してくれたのは、あまりにも信じがたい話だった。雨のこと、そし
て先輩の恋人のこと。その真実を。
十分ほどで全てを語り尽くせるほど、それは小さなことではなかった。だから私は、その
場所に向かっている。
雨は、やはり降っていない。それでも、私はクリス先輩の思っていることが、少しだけわ
かる気がした。
薄暗い世界。私のいるこの世界は、いつでもそんな風に、私の目には映る。それこそが真
実の姿であるかのように、絶対的で、揺るぎのないものだった。
そしてクリスさんは、そこに射した一筋の光のようにさえ、私には思えた。
変われる気がする。私自身と、それを取り巻く全てのものさえも。
程なく歩き、言われた通りの家を見つけた。チャイムを押すと、すぐに扉が開き、中から
出てきた人が驚いたように私を見つめる。
「……早かったね。今日はクリスの部屋に寄ってくるんだと思ってた」
「そのつもりでしたが、すぐに……話が聞きたかったので」
「そう。ならあがって」
トルティニタさんは、今まで私が見た、誰の笑顔よりも儚げに微笑んだ。そして、奥へと
通される。
「お客さんかい?」
「……うん。私のお友達」
久しぶりに聞いたその言葉に、心が躍ることはなかった。それよりもまず、この家に……
家庭という言葉がふさわしいこの場所に、うちのめされそうになっていた。
「……そうかい。なら、お茶でも用意してこようかね」
家具があり、人が住めるように整えられた場所。でも家は、本当はそれだけの場所では
ない。人がいて、心があって……そこには愛さえもあるはずの場所だった。私の欲しかっ
たなにかが――今まで言葉にならなかったなにかが、ここにはきっとある。そんな気がした。
「ううん、ちょっと話したいことがあるから、私の部屋に行くね。それで良い?」
「あ……はい。その……お邪魔します」
「ゆっくりしていきなさい。あなた、お名前は?」
「リセルシアです」
「綺麗な名前ね。これからもトルタをよろしくね。後でお茶と、なにかおいしいお菓
子でももっていってあげるから」
「……おばあちゃん」
トルティニタさんからおばあちゃんと呼ばれた人は、私からちょっと外れた場所を
見つめながら続ける。
「トルタがお友達を連れてくることなんて初めてでしょ? それくらいさせてくれて
もいいじゃない」
「いいって。とにかく、私達は上に行くから」
まるで、そのおばあさんを避けるようにトルティニタさんは言い放った。そして私
の手を取り、早足で階段を上っていく。
軋むような音を立てるその階段が、昔、私が住んでいた場所を思い出させた。人が
使っていることを証明するその音を感じながら古びた階段を上る。手摺りは所々すり
減り、木の色が逆に鮮やかに見えた。
トルティニタさんの部屋は、思っていたよりも簡素で、綺麗だった。部屋の隅に立
て掛けられた大きな鏡が目を引く。
「ごめんね、おばあちゃんが変なこと言って。でも大丈夫。ああ言っておけば急に来
ることはないから」
トルティニタさんはベッドに腰を掛け、向かいに置いてある机の椅子を引き、私に
座るように促した。
「い……いえ」
変なこと、というのがなにを指すかはわからない。もし、友達を連れてきたことが
ない、ということならば、私の方こそ、こうして誰かの家に行くことなんてなかった。
私達が、友人という関係でないのは二人共がわかっていた。
「それで……聞きたいことだっけ」
「……はい」
「クリスの心にはね、雨が降ってるの」
トルティニタさんは、今日の昼、学院の廊下で語ったときと同じ顔、同じ口調でそ
う呟いた。私にはすぐにわかった。いや、誰でにでもわかる。トルティニタさんはク
リスさんのことが好きなんだ。きっと、誰よりも。
私なんかが、負けたくないと思うのが不遜だと感じてしまうほどに。
「それも全ては、私達がここに来る……ほんの少し前に起こった事故のせいでね」
努めて軽い口調を装っているのが、すごくよくわかる。詳しい話までは聞けなかっ
たけど、クリスさんの彼女であり、トルティニタさんのお姉さんでもあるアリエッタ
さんが、今、どんな状況になっているかだけはすでに知っている。問題は、そこから
先のことだった。
「この話を誰かにするとは思わなかった。でも、そうするべき時が来たんだね。今か
らするのは……すごく、すごく嫌な話だと思う。それでも、リセさんには聞いておい
て欲しいの。いい?」
「……はい」
その覚悟は、していたつもりだった。空を見つめるクリスさんの顔を見て、すぐに
冗談でも嘘でもないことがわかったから。
「ありがとう。ほんとに……ありがとう」

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